どうも、ヨウ-Pです。
福知山市動物園のサルと沖縄のサルが脱走したらしい。。。
福知山市動物園のサルは2010年に猪のウリボウの背中に乗っていた小猿のみわちゃんだとか。。。
一方、受刑者らの脱走の報道も続いています。
介護施設はどうでしょうか?
離設と言われたり離園と言われたりして、脱走とは言われません。
いや…もしかしたら未来においては『脱走』という言葉が使われるかもしれません。
というわけで、今回の記事は『介護×15の夜?』をテーマとします。
人もサルのみわちゃんも「自由」のために脱走する?
脱走とは・・・
束縛されている場所から抜け出して逃げること。
束縛されている場所・・・。
福知山のサルのみわちゃんも沖縄のサルも束縛されているという捉え方になるのだろうか?
そんな固いことは抜きにして、サルにしてみれば束縛から自由を手に入れたかったのかもしらませんね。
尾崎豊の「15の夜」のようですね(^_^;)
盗んだバイクで走りだす
行く先も解らぬまま
暗い夜の帳りの中へ
誰にも縛られたくないと
逃げ込んだこの夜に
自由になれた気がした15の夜
今聴いても心に響く歌です(^_^)
誰にも縛られたくないと家出という名の「脱走」をして自由になれた気がしたと歌っています。
10代の頃に聴いた感覚と今聴いた感覚とさほど変わらぬ「自由」というテーマ。
サルだって、私たちだって、何かに縛られながら生きているわけで、自由を求めればそれは「脱走」なのかもしれません。
サルや受刑者だけでなく、皆縛られることに少なからず抵抗があるということです。
恋愛においては「束縛されたい」という人がいますが、これもまた「束縛されたい」という自由を求めているのでしょう。
言い換えれば「あなたと過ごせない時間に縛られたくない」「あなたとの時間を自由に過ごしたい」ということですから。
なので、人もサルも皆、縛られたくないから、自由になりたいから「脱走」するのです。
認知症の利用者が離設する理由を考えてみる
人もサルも皆自由になりたいのなら、認知症の利用者だって入居している施設から自由になりたいから離設行為があるのではないでしょうか?
ところが、認知症の人の場合は「脱走」とは言いません。
あくまで「離設」です。
そして、離設の理由は「認知症だから・・・」です。
認知症があるから分からぬままに施設を出てしまい帰れなくなってしまう。
それが「離設行為」なのです。
・・・本当に分からぬままに施設を出たのでしょうか?
施設に帰りたいと思ったのでしょうか?
なんでもかんでも「認知症だから」「分からないから」で片づけてしまうのは、当然のことながら不正解です。
「離設」がそんな理由で終ってしまうぐらいなら、「脱走」と言ってあげたほうがいいぐらいです。
施設での生活に「束縛」があったから、「自由」を求めてその場を離れた可能性を考えるべきなのです。
施設にある「束縛」を考えてみる
施設にある「束縛」は身体的なものだけではありません。
身体的な束縛で言えば、介護保険制度のもとで禁止されている11項目の身体拘束があります。
こちらが11項目です↓
①徘徊しないように、車いすやいす、ベッドに体幹や四肢をひも等で縛る。
②転落しないように、ベッドに体幹や四肢をひも等で縛る。
③自分で降りられないように、ベッドを柵(サイドレール)で囲む。
④点滴・経管栄養等のチューブを抜かないように、四肢をひも等で縛る。
⑤点滴・経管栄養等のチューブを抜かないように、又は皮膚をかきむしらないように、手指の機能を制限するミトン型の手袋等をつける。
⑥車いすやいすからずり落ちたり、立ち上がったりしないようにY字型抑制帯や腰ベルト、車いすテーブルをつける。
⑦立ち上がる能力のある人の立ち上がりを妨げるような椅子を使用する。
⑧脱衣やおむつはずしを制限するために、介護衣(つなぎ服)を着せる。
⑨他人への迷惑行為を防ぐために、ベッドなどに体幹や四肢をひも等で縛る。
⑩行動を落ち着かせるために、向精神薬を過剰に服用させる。
⑪自分の意思で開けることのできない居室等に隔離する。
これらの身体拘束は「虐待」として位置づけられているわけですが、禁止されているこれらの項目だけ守っていればいいわけではないんです。
介護保険施設等では、身体拘束になるであろうことは極力しないように努め、「虐待」の芽を摘む取り組みも必要とされています。
身体拘束は明らかな「束縛」ですが、これらの身体拘束をしていない施設でも、実は多くの「束縛」があるのが「施設」という場所です。
これは「施設」を責めているわけではなく、仕方ないことなんです・・・。
各家庭で考えてみても、「束縛」なんていくらでもあると思います。
人が誰かと生活する時点で「束縛」は必ずあります。
それを「苦」と思うかどうかはその人次第・・・というだけの話です。
少人数の家庭という場所でも、人は合わしあって生きています。
朝6時に起きろと言われたら無理してでも起きたり・・・。
今日の昼はラーメンだと言われたら、うどんが食べたくてもラーメンを食べたり・・・。
出かけたくなくても出かけなきゃならないこともあります。
それが10人、20人、30人・・・と人がたくさんいる場所が介護施設です。
しかも他人同士です。
家庭以上に合わせなければいけないことが多いのは避けられないことは考えずとも見えてくると思います。
そこに「自由」はあるんでしょうか?
もちろん努力することはできますが限界があることは一目瞭然です。
その時点で、利用者さんには縛られているという感覚は少なからずあると思います。
ましてや認知症の方の場合は、今自分がしたいと思うことを制限されてしまう理由が分からなかったりするので、余計に縛られている感覚は持ちやすいと言えます。
なんで風呂に入りたくないのに風呂に入れようとするんじゃ(-_-;)
ちょっとどっかに行こうと思ったらすぐに連れ戻すんはなんでなんじゃ(ーー;)
施設にはあらゆるところに「束縛」が潜んでいて、認知症の人にとっては特にそれを感じやすい環境があるのです。
そう思うと、認知症の人がその場所から出ようと思われても仕方ないことのように思えてきませんか?
それはもう「離設」ではなく「脱走」なのです。
「脱走」と捉えて離設防止策を考えてみる
ずっと同じ場所にいることは息苦しく、それだけでも「脱走」はしたくなるものだと思います。
人もサルも。。。
それだけでなく、いろんなことで縛られている居心地の悪さがあれば「脱走」したくもなるものです。
何に「自由」を求めるかは人それぞれとして、誰しも「自由」になりたいのです。
じゃあ「自由」にしてあげたら解決するかというと、なかなか「自由」にしてあげることが施設では難しいというのが現実です。
でも、そこであきらめてしまってはいけません。
出来る限りその人の思いを理解してあげようという姿勢があれば何かが変わってくることがあります。
人間というものは不思議なもので、相手のそうした姿勢を感じるだけでも居場所を感じたりすることがあります。
私のことを見てくれている安心感みたいなものです。
認知症の方のベースにあるのは、「なんで自由にさせてくれんのじゃ!」ではありません。
なんで分かってくれんのじゃ!
これが認知症の方の思いです。
こちら側の「こうしてほしい」をいったん捨てるんです。
盗んだ杖で歩かせてあげてください。
行く先も解らぬまま歩かせてあげてください。
暗い夜の帳りの中へほんの少し歩かせてあげてください。
そうやって何かをしたい認知症の人の行動を分かってあげようとすることで「自由になれた気がした」と思ってもらえるかもしれません。
85の夜に・・・。
まとめ
認知症の人の離設を考えた時、「脱走」とも思えるケースがあることは確かです。
もちろんそれが全てではありません。
たまたま外に出てしまって帰られなくなったという方もおられます。
ただ、そういう方の場合であっても、なかなか外にさえ出られない生活の中で「縛られた生活」を感じておられるという背景は十分にありうると思います。
そういう意味では、いっそ「脱走」と捉えてあげたほうがよいのではと思うのです。
尾崎豊が「15の夜」で歌っている「自由になれた気がした」という言葉。
せめて自由になれた気がする介護がしたいものです。